上京と教勢拡張

明治4年、聖ニコライはロシアから帰国した。多くの人々がまた彼のもとに集まり、教書出版の必要が生じてきた。彼が持ち帰った石版印刷機を用いて、彼自らが使用して、天主経、日誦経文、東教宗鑑、教理問答、聖書入門、祭日記憶録、聖経実蹟録、「朝晩祈祷および聖体礼儀祭文」、露和字典等を刊行した。恐らくこれは日本における石版印刷の初めであろう。

明治4年(1871)12月、日本の伝道を補佐するためにロシアから修道司祭アナトリイ師が函館に到着した。聖ニコライはこの人に函館における伝道事業を任せて、明治5年1月函館を出航、海路横浜に着いた。すでにこの頃新教各派の宣教師は盛んに活動しており、フランス領事館付きの司祭によって天主堂が建てられているのを見た。聖ニコライが東京に着いたのは明治5年(1872)2月4日であった。築地に貸家を見つけそこに住み始めたが、2月16日の火災で終わり、後築地入船町に居を構えて正教伝道を始めた。

彼はこのころ芝の増上寺で、仏教の教えを学僧から聞いて研究していた。上京以来、次第に彼の名声も高まり、多くの名士らも訪問。明治5年にロシアの皇族アレクサンドル公が来日したおりには明治天皇との間に通訳の役割を果し、外人宣教師として謁見の先例を開いた。その後も皇族や政府関係者等の交流は深まっていく。

聖ニコライは、当初市中にでかけ人々の家々を一軒一軒訪ねて、正教を説いた。しかし、本格的な正教伝道のために態勢を整える必要を感じ、東京市中を巡覧し、将来の大聖堂建立、宣教の中心をどこにすべきか探し歩いた。そして今の復活大聖堂(ニコライ堂)の建つ場所、神田駿河台の高台を気に入り、2300坪と数戸の廃屋を併せて買った。当時外国人の内地雑居が認められなかったのでロシア公館付属地という形式で登記し、ここの本拠地が定まった。

本拠地が定まるころ、東北各地から教理研究のために上京したものも多く、東京のものからも信仰に進んだ人もでてきた。聖ニコライは正教を学び教役者になろうとする者のために「伝道学校」を開き、また宣教館などの建物を整備していった。

明治7年には東京の布教活動も大きな進歩を遂げた。四谷、浅草、本所には講義所が設けられ伝教者を配置した。続いて日本橋や神田にも広がった。聖ニコライが上京すると、名古屋、岡崎などの東海地方、さらには京阪地方での布教が始った。そこで聖ニコライは明治7年5月、初めて布教会議を東京で開いた。このとき、「伝道規則」が定められ、伝教者の義務、幼児の正教教育、議友(執事)の役目、公会の日時などを決めた。聖ニコライの人格に偉大な影響を受け、福音伝道への熱が燃え上がり、明治10年前後には、教勢は東北地方は仙台を中心として付近一帯、関東も東京を中心に広まった。その後関西地方、大阪を中心に有力な伝教者を置いて、本格的に伝道される。明治8年(1875)7月12日、東京で公会が開かれた。出席議員は28名。信徒の増加に伴い司祭の必要が叫ばれ、邦人司祭選立の議が起った。そこで、沢辺を司祭に、酒井を輔祭に立てることが決められ、この年東部シベリアの主教パウェル師を招聘して、函館において神品機密(神父、輔祭の神品を叙聖する儀式)を行った。これが日本における司祭の叙聖の最初である。

明治7年には聖歌教師ヤコフ・チハイ氏が来日し伝道学校で聖歌を教えた。明治8年には修道司祭モイセイ師とエウフィミィ師が来日するが、両氏とも明治12年までに帰国する。明治12年には修道司祭ウラジミル師来日。語学校の教授として学校を盛んにする。

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