信仰

教会

教会とはギリシャ語の「エクレシア」を訳した言葉です。「エクレシア」とは、神のみ旨と業を行うために「呼び集められた者たち」という意味です。教会は単に「聖書の教えを聞く集会」ではありません。また教会の建物だけを意味するのでもありません。教会はハリストス(キリスト)神が私たちのために作られた聖なる共同体です。ですから、私たちは、教会を信じる信仰をもっていなければなりません。私たちは、教会をとおしてハリストス(キリスト)によって聖神において救われると信じています。

「信経」では、「又信ず、一の聖なる公なる使徒の教会を」と言います。つまり、教会とは「一つ」であり「聖」であり「公」であり「使徒」であるのです。

教会が「一つ」と言われるのは、教会を教会たらしめているお方が「一つの神」だからです。現実的に人間一人一人は教会に属したり離れたりします。異端者は教会の正しい一致を妨害するものとして教会の外に出されます。そして、歴史的な現実として正教から旧教、新教が分離していきました。しかし、こうした現象にもかかわらず、私たちは教会は一つであると信じます。教会は罪深い人間の集まりである一方、その本質は「聖」であるからです。

教会が「聖」であるのは、神が「聖なる」お方だからです。つまり、教会に「聖性」を与えているのは神様です。教会は聖なる人々が集まる所ではなく、集まった人間が神の聖性にあずかることのできる所なのです。教会は聖ですが、教会に集まる人間は弱く不完全です。しかし、その罪深い人間が、教会をとおして聖なるものになっていくことができます。

教会は、「公」でもあります。「公」とはギリシャ語の「カトリック」を訳した言葉です。「カトリック」とは直訳すると「十分」とか「完全」とか「無欠」という意味です。もちろんこれも神様ご自身の「完全性」に教会が預かっているということです。教会の「カトリック性」は、時間と空間をとおして普遍であるというテーマで理解されています。つまり、どんな時代どんな場所でも変わらない真理(つまり正しい神を正しく信仰すること)を持っているということです。正教会は、こうした真理を保持しているという意味で「カトリック(公なる)」教会です。しかし、ローマ・カトリックが主張するような形式的、習慣的または機構的な普遍性という意味では「カトリック」ではありません。

「信経」は最後に「使徒の」という大事な一言を忘れていません。「使徒の」という言葉は、ギリシャ語の「アポストリキン」を訳した言葉で、「派遣される」という意味を持っています。ハリストス(キリスト)も聖神も父からこの世に「遣わされた」お方です。教会が「使徒」であるのは、第一にこの「使徒的な」ハリストス(キリスト)と聖神の上に存在していることを意味しています。ハリストス(キリスト)はその弟子たちを使徒としてこの世に「遣わし」ました。「使徒の教会」とは、第二にこの「使徒たち」から連綿と継承されてきていることを意味します。そして、第三に、教会の目的自体が、この世で神の国を証しするために「遣わされている」ということを意味しています。

私たちは、正教会がこのように「一つの聖なる公なる使徒の教会」であることを信じています。

教会は、言い換えるなら「三位一体の神の像」であると言えます。「像」とは「似ている」という意味です。人間そのものが神に似せて造られた存在であると聖書は教えます。教会も人間と同じように三位一体の似姿をもっているのです。つまり、一致しながら区別され、区別をもちながら一つであるということです。正教会が国ごとに独立する形をとる理由はここにあります。自治的にひとり立ちする形は「アウトノミヤ(自治教会)」と呼ばれ、完全に独立する形は「アウトケハリヤ(完全独立教会)」と呼ばれます。いずれにしても正教会は、ある特定の人物の権威によってではなく、神によって導かれているのである、と固く信じています。

聖書で教会が「ハリストス(キリスト)の体」と呼ばれているのは、教会が一体であり、且つ区別があることを教えるためです。「体」は「頭」の言うことに従います。同じように、ハリストス(キリスト)の「体」である教会は、教会の「頭」であるハリストス(キリスト)に対して従順であり、一体となって頭と結び付いているのです。

ハリストス(キリスト)の体は一つに一致していますが、それぞれ器官は独特の働きをします。その一つ一つの区別は、聖神の賜物として与えられます。教会とは、聖神降臨が継続している所と言い換えてもよいでしょう。ペンテコステの日、弟子たちに降臨した聖神は、「舌のようなものが炎にように分かれて現われ、一人一人の上に」とどまり、「いろいろの言葉」で神の大いなる業を伝えたのでした。パウェル(パウロ)は、聖神は一つであるが、その賜物は種々あると説いています。教会は一人一人のユニークさを大切にします。決して人間に見えないユニフォームを着せて画一的に扱うなどということはしません。正教会の聖人たちがいかに個性的であるかを見ればわかります。

ハリストス(キリスト)の体である教会には、籍身したハリストス(キリスト)と同じように見える部分と見えない部分があり、それら二つは分離されず一つにあわさっています。見える教会とは、この地上で肉体をもった人間が集まっている教会で、この世の罪や悪魔と戦うべき役目をもつので「戦う教会」とも呼ばれています。見えない教会とは、天上で天使たちと共にすでにこの世を去った聖人たちが集まる教会で、しばしば「勝利の教会」と呼ばれます。

見える教会に所属し、奉神礼を行うということは、すなわち見えない教会に属し、天使と共に神を讃美することに繋がります。しかし、地上の教会に属していても、もし形だけで信仰がなければ、天上の教会との絆は解けていくでしょう。地上の教会に属していなくとも、神の恵みによって天上の教会に受け入れられる人がいるかもしれません。しかし救いは「一つの聖なる公なる使徒の教会」「三位一体の像である教会」「ハリストス(キリスト)の体」である教会をとおして与えられることに変わりはありません。

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