信仰

信経

正教徒は何を信じているのですか、と問われたとき、それに対する確かな答えを私たちはもっています。それが「信経」と呼ばれる信仰箇条です。正教会の信徒ならば、この「信経」の全文は暗記するぐらい知っておかなければなりません。「信経」は、洗礼を受ける時だけでなく、聖体礼儀が行われる度に唱えられます。今、ここにその全文を記します。

我、信ず、一の神・父、全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。
又、信ず、一の主イイスス・ハリストス、神の独生(どくせい)の子、万世(よろずよ)の前(さき)に父より生まれ、光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、生まれし者にて造られしに非ず、父と一体にして、万物、彼に造られ 我等人々の為、又我等の救いの為(ため)に天より降り 聖神及び童貞女マリヤより身を取り人と為(な)り 我等の為(ため)にポンティイピラトの時、十字架に釘うたれ苦しみを受け葬られ 第三日に聖書に叶(かな)うて復活し 天に升(のぼ)り父の右に坐(ざ)し 光栄を顕(あら)わして生ける者と死せし者を審判する為(ため)に還(ま)た来り その国、終りなからん、を
又、信ず、聖神、主、生命(いのち)を施す者、父より出で、父及び子と共に拝まれ讃められ、預言者を以(もっ)てかつて言いし、を
又、信ず、一の聖なる公(おおやけ)なる使徒の教会を
我、認む、一の洗礼、以て罪の赦(ゆるし)を得(う)る、を、
我、望む、死者の復活、並びに来世(らいせい)の生命(いのち)を アミン

この「信経」は、正式には「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」と言います。それはニケヤにおける第一全地公会(325年)とコンスタンチノープルにおける第二全地公会(381年)において出来たものだからです。

初代教会では、キリスト教信仰の表明にはいくつもの異なった形、たくさんの信仰箇条がありました。その古いものの中の一つとして「使徒信条」と呼ばれるものを新教などでは使用していますが、正教会では、この「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」のみを正式に採用しています。

第一全地公会は、ハリストス(キリスト)に関する異端に対して正しい信仰を明確にするために開かれたものでした。ハリストス(キリスト)は、神によって造られた超人的なお方である、と主張したアリウスという人がいました。正教会はこの異端の教えに対して、神の子であるハリストス(キリスト)は神から生まれたものであって造られたものではない(生まれし者にて造られしに非ず)と反論しました。カエルの子はカエル、人間の子は人間です。同じように神の子は神なのです。それをもっと明確にするために、「信経」では「父と一体」と言っています。この「一体」と訳されたギリシャ語は「ホモウシオス」といい、「本質が同じ」という意味です。ハリストス(キリスト)は、神・父と同じ神としての本質をもっている、ということです。神の子が神・父から「生まれる」というのは象徴的な表現であって限界があります。だから第一全地公会では、「神の子が存在しなかった時があるとか、生まれる前にはいなかった…などという者は破門にする」と但し書きを付加しました。

また、聖神も神であるということについては、コンスタンチノープルにおける第二全地公会で確信されました。さらに教会について、洗礼について、来世の生命についての信仰箇条も追加されました。

さて、「信経」では、神であるハリストス(キリスト)が、マリヤをとおして人間になったこと(藉身(せきしん)という)、そして十字架につけらたこと、死から復活したこと、天に昇ったこと(昇天という)、この世の終わりに再び来られること(再臨という)、そしてそれらがすべて私たち人間の救いのために行われたことを信じていると表明します。藉身も十字架も復活も昇天も再臨も、私たちの理解を超えていることです。しかしだからこそ、「信じる」必要があります。

「信仰」とは、「仰ぐ」相手を「信じ」るということです。私たちにとって、それは唯一の神様であり、その神様が言われることなさることなら信じて受け入れようとすることが「信仰」です。たとえ自分は神が存在するという信念をもって生きているという人がいても、それは信仰ではありません。その人は神様を信じているのでなく、神様はいるにちがいないという自分の考えを信じているだけです。また、自分のしあわせのために信心深くあろうとする人がいても、それは信仰ではありません。その人は、自分のしあわせや生活の快適さという目的のために、神様を利用しているにすぎません。信心深い人は、信じる対象にはこだわらずあらゆるものを信じようとします。また信教の自由だから宗教は自分自身で選ぶものという考えもありますが、それは唯一の神様への信仰とは矛盾してしまいます。宗教はいくつもありますが、神様はただ一つの神様なのです。

キリスト教はしかし、唯一の神様でありながら、神・父も神、であり、神の子も神であり、聖神も神であるといいます。まるで三つの神様がいるように聞こえますが、そうではなくあくまでも唯一の神様です。このことを「三位一体」、正教会では「至聖三者」と言います。三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていることで、神の神秘としか言いようがありません。だからこそ、「我、理解す」とは言わず、「我、信ず」と言っているわけです。

キリスト教は、このように、三位一体の唯一の神を信じ、ハリストス(キリスト)の藉身や復活を信じ、聖神を神として拝んでいます。もし、三位一体など受け入れられないとか、ハリストス(キリスト)は単にユダヤ教を改革した偉い宗教的人物であって復活なども実際にあったのではなく弟子たちの心理的な変換に過ぎないなどと教える教会があったら、たとえハリストス(キリスト)の尊い教えを宣べ伝えていても、それはキリスト教ではありません。

「信経」の本質的な意味を受け入れるということが、正教会の信徒になるということなのです。

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