これまで度々述べたように、私たち人間は神に似せて造られました。人間とは「神のイコン」である、というのが正教会の人間観です。旧約聖書の創世記によれば、神はご自分の「像」と「肖」に従って人を創造されました。「神の像」とは、神に近づくための力や可能性や出発点を意味し、「神の肖」とは、その実現や完成を意味します。人間は初めから完璧な者としてではなく成長し進化すべきものとして造られたわけです。しかし、人間は罪によって「神の肖」を失ってしまい、「神の像」も破損しました。破損した「神の像」は、それでも消滅せずに残存しています。どんな人間でも神のイコンでありつづけるので、一人一人の人間は、かけがえのない尊き存在なのです。
「神の像と肖」という時、その「神」とは至聖三者の神であることを見落としてはなりません。人間が多様性をもち、一人一人がかけがえのない「個」でありながら、一つに一致し、愛の交わりをもつことができるのは、至聖三者に似せて造られているからです。
人が「神の像」をもつことは、人が理性をもつことに置き換えて説明されることがあります。確かに人が大いなる知識と知恵と理解をもって社会生活を営むことは、私たちと動物とを区別する一面です。しかし、理性だけが人間の唯一の特性ではありません。正教会では「神の像」の中の「自由意志」に強調を置きます。神が自由であるように、人間も自由です。自由であるが故に、真実の愛をもって愛し合うことができます。神様は人間からこの「自由意志」を取り上げません。もし人間からそれを無くしたら、人間ではなく人形かロボットになってしまいます。もちろんすべてのことを行うのは神様ですが、人間には、それを受け取るか拒絶するかを選択する自由意志が残されているわけです。神の力を受け入れるべき人の力が私たちにはあるのです。この神の力と人の力との共同のことを正教会では「シネルギイ」と呼びます。「シネルギイ」とは、「力を合わせる」という意味です。人間は神との「シネルギイ」によって、生活し、成長し、信仰し、救われるのである、と正教会は教えます。「シネルギイ」の典型的な例が生神女マリヤです。神・聖神の力とマリヤの自由意志による従順の力が、ハリストス(キリスト)という「救い」をもたらしました。

神の像としての人の成長や発展には、終わりがありません。限りなく尽きることなく、人は、神に似てゆきます。それは、神ご自身が限りなく永遠であるからです。神に似てゆくということは、「神の本性にあずかる」(ペトル(ペテロ)後書1:4)ということです。人間が神の本性にあずかるようになることを、正教会では「テオシス」と言います。「テオシス」は正教会では「神成(しんせい)」と訳されます(一般では「神化」と言う)。アファナシイという聖師父は、「神が人となったのは、人が神になるためであった」と言いました。「人が神に成る」という言葉は、それだけをとりあげた場合、かなり危険で誤解を招きかねませんが、しかし、「テオシス(神成)」は、正教会の教えの根幹にあるものです。人が神に成るといっても、人でなくなるのではありません。あくまでも人でありつづけながら、神の本性(愛とか自由とか永遠とか喜びとか力)をいただくことを言います。だから「テオシス(神成)」は特別な人にではなく、すべての人にとって関係することです。また何か特異なことをするのではなく、全く普通の信仰生活を励むことによってテオシスはなされていきます。普通の信仰生活とは、教会に参祷し、機密を受け(第5章@を参照)、聖書に耳を傾け、深く祈り、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うということです。聖人はテオシスの栄光にあずかった人々ですが、しかし、罪の自覚、痛悔の心は逆にますます深くなっています。神がへりくだりの神であるように、テオシスされる人間はへりくだりをもちます。テオシスとは、言い換えれば人間がより人間らしく(神の像として)なることです。

創世記にはまた、人間を「地の塵をもって」造り、「生命の気」を吹き入れたと書いてあります。これは人間に肉体の面と霊(神゜)の面の両面をもっていることを示唆します。神は、「見ゆると見えざる万物」をお造りになられましたが、人間はその両方とももっています。人間のみがこの二つの世界に属しています。天使は霊(神゜)の面しかありませんし、動物には肉体的な面しかありません。正教会は、聖書が教えるように、人間を、この肉体と霊(神゜)が一つなったものとして捉えます。信仰や祈りや救いということも、単に霊(神゜)に関するだけでなく、肉体をも含んだ全身全霊に関することとして考えます。ハリストス(キリスト)が復活した時、単なる霊ではなく肉体をも持っていたように、私たちの望む「復活」や「来世の生命」も体をもつものであることは確かです。
こうした「見ゆると見えざる」両面をもつ人間は、「ミクロコスモス(小宇宙)」と呼ばれます。「ミクロ」とは「小さい」、「コスモス」とは「宇宙」「万物」という意味です。一人の小さい人間の中に「見ゆると見えざる万物」全体の像が鏡のように映し出されているからです。人間が「ミクロコスモス」であるということは、人間が「見ゆると見えざる」二つの世界の仲介者であるということも意味します。仲介者とは、この二つの世界を調和させ、一致させ、神にふさわしいものとして変容させ、感謝をもって神に献げる使命をもつ者という意味です。神様は人間を造った時、この世を「治め、つかさどれ」と命じました。罪深い人間は、この言葉を曲解してこの世を自分勝手に使用する権利があると勘違いしてしまいます。そうではなく、心から感謝をこめて、創造主である神にこの創造された世界を献げ戻すことこそ、この世を「治める」という使命の意味です。言い換えれば、すべての人間は、司祭としてこの世と自分を神様に献じるべきものなのです。アダムは、この司祭としての役目を怠りました。ハリストス(キリスト)はこの司祭としての人間の役目を復帰させました。私たちが、神の完全な像であるハリストス(キリスト)と共に感謝をもって自分とこの世を献げようとする時、神の像は回復され始め、テオシスが開始します。