教え

聖伝

正教会の教えの源泉は神の啓示にあります。「啓示」とは神様が、ご自身を私たちに教えるということです。とは言っても、神様の奥深い本質そのものは私たちには把握できません。だから、深淵なる神のすべてが明らかになったわけではありません。ただ神は人が理解できる範囲でその聖なる性質と意思をお示しになったのです。神様は最初、旧約という時代にご自分を啓示し、人々にその啓示を伝えさせました。そして自らが人間となって自己を啓示されました。すなわちイイスス(イエス)・ハリストス(キリスト)は、神の啓示そのものです。イイスス(イエス)・ハリストス(キリスト)が使徒たちに与えた信仰や教えを、正教会は、次の世代から次の世代へと連綿と受け継いできました。この「受け継ぎ」を、教会の聖なる伝統という意味で「聖伝」と言います。

「聖伝」を伝えていく中でも、神の導きがあります。「神・聖神゜」が「あらゆる真理に導いてくれ」(イオアン(ヨハネ)16:13)るのです。この聖神による導きが、正教会の「聖伝」の基礎です。「聖伝」とは、形や言葉を機械的に保存することではなく、いつでもどこでも聖神の臨在によって神の啓示を教え伝えるということです。つまり「聖伝」は生きたものです。だから私たちは「聖伝」の中で生きる必要があります。「聖伝」の中で生きた生活をすることによって、正教会の教えが理解できます。正教会の信徒とは、「聖伝」を生きる者と言えます。たとえイコンや聖歌や聖師父を研究したとしても、その人が正教会の聖伝の中で生きていなければ、それは正教会のものではありません。

正教会とは、「聖伝」そのものです。正教会の教えが人の勝手な解釈による教えではなく、神の教えであることの根拠が「聖伝」にあります。

聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や伝承と見なしてはいけません。聖書と「聖伝」という二本の柱があるのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているのです。聖書は「聖伝」から生み出されたものです。これとこれが聖書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖書と認めた(「正典化」と言う)のは教会です。聖書が先にあって教会が生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み出した聖書は、その後の「聖伝」を基礎づけるものとなりました。つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書という規準に基づいて、聖神の導きによって、合議の上、判断されます。

正教会の聖伝には、聖書の他にさまざまな構成要素があります。それらはみんな同じ価値なのではなく、重要なものとそれほどでもないものとがあります。聖書とならんで重要な聖伝としては、「信経」や「全地公会」の決議(教理)があります。特に至聖三者の神のことや、イイスス(イエス)・ハリストス(キリスト)の藉身などについての教義は、不変であり、絶対であり、取り消したり改訂したりしてはならないものです。

次に重要なものとしては、奉神礼や聖師父たちの著作があります。特に奉神礼は、言葉としても形としても正教会の教えが盛り込まれており、参祷する者が心して奉神礼を体験するならば、正教会の教えが体得できるようになっています。「聖伝」を生きるということは、奉神礼に参祷することから始まります。正教会の奉神礼には正教会の「正しい教え」が表現されているので、絶対的な信頼を置くことができます。

聖師父たちの著作は、正教会において聖書を解釈する上で最も大切な要素ではありますが、すべての聖師父たちが同じような権威をもっているのではありません。聖師父たちのその一字一句をすべて鵜呑みにしてはいけません。要は、自分が「聖伝」の中でその言葉をどう消化するかが大切です。

その他、「聖伝」には、教会法(カノン)があります。「カノン」という言葉は、規則とか規準とか判断の基準という意味で、主に歴史的な公会議で取り決められた事項です。私たちが正しい教えを生きるための指針となりますが、法律や律法としてとらえてはならないという注意が必要です。ハリストス(キリスト)は「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と教えました。教会法(カノン)の中には絶対に守るべき事項もありますが、地域や時代によって考慮すべき事項もあります。

例えば、聖職の権威を売買する行為は絶対に禁止されていますが、司祭になる年齢は30歳以上という習慣的なものは考慮の対象になります。教会法(カノン)は、正教会のすべてを網羅しているわけではありません。ある特殊な教義的問題や道徳的問題、逸脱した教会生活への答えとして生み出されたものです。

イコンの伝統や音楽としての聖歌の伝統や教会建築なども、聖伝です。こうした目に見える教会の芸術は、特に肉体の感覚に訴えますので、正教会外の多くの人が関心を寄せる部分です。正教会の教えが色と線で表現されるイコンや、奉神礼の欠かせない要素である聖歌は、正教会の「聖伝」のすばらしさを伝えるでしょう。逆に言えば、正教会の「聖伝」を熟知することによって、イコンや聖歌の「すばらしさ」が真の意味で理解できるでしょう。

正教会の「聖伝」の中でも、時代や地域によってかなり差のある細かい事項もあります。例えば「糖飯」(死者の為の祈祷の時に作る食べ物)や「復活祭の卵」などです。また正教会の中で行われていることすべてが「聖伝」ではありません。神の国と本質的に関連していないことで単に地方や時代によって習慣的に行われることもたくさんあります(バザーやその他の行事など)。

しかし、正教会の「聖伝」の中にあるすべては、有機的に繋がりをもっています。一つの要素は孤立しておらず、あらゆる要素と密接に繋がっています。そして、教会は、神・聖神を受けて生き続けるが故に、「聖伝」は成長し発展し続けます。

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