かたち

イコン

「イコン」というのは、もともとギリシャ語で、「形」とか「像」という意味をもっています。日本正教会では「聖像」と訳されることもあります。「イコン」は、狭い意味では一枚の板に描かれた絵のことをいいますが、広い意味では、正教会が使用する絵画すべてを指します。

迫害を受けていた初代教会の人々は、「カタコンベ」と呼ばれる地下墓地で集会を開いていましたが、彼等はその壁にさまざまな壁画を描きました。これらは、歴史的に確認できる一番古いキリスト教美術です。

しかし、正教会には、イコンの由来について二つの伝承が残されています。

一つは、聖使徒ルカが、生神女マリヤとハリストス(キリスト)を描いたのがイコンの始まりである、というものです。この伝承は、正教会がイコンを用いるのは福音に基づいているのである、ということを教えています。福音書は、神が生神女マリヤをとおして人となったこと、つまり藉身の事実を知らせています。イコンの根拠はハリストス(キリスト)の藉身にあります。

もう一つは、エデッサという町にいたアブガル王が重病になり、イイスス(イエス)のもとへ使者を送って癒しを求めたところ、イイスス(イエス)がご自分の顔に一枚の布を押し当てて、それを使者に渡したという伝説です。その布にはイイスス(イエス)の顔が写っていました。これが最初のイコンとされています。これは、誰かが絵の具と筆を使って描いたものではないので、「手によって作られてない」(ギリシャ語で「アヘイロポイエトス」)イコンと呼ばれます。日本正教会では「自印聖像」と訳されます。布に直接ハリストス(キリスト)の顔が写ったということは、神であるハリストス(キリスト)が肉体をもった現実の人間であったこと、そして誰かが勝手に想像して描いたのでもなく、幻影をスケッチしたのでもないことを教えます。イコンの中のハリストス(キリスト)の顔は、この自印聖像に源流をもっています。それは、イコンというものが画家の個人的な裁量やイメージに任せられないことを意味しています。

正教会の歴史の中で、イコンに関する是非が問われた時期がありました。イコンは偶像であり十戒の「刻んだ像を造ってはならない」に反するものであって正統と認められないと主張する人々が続出したのです。「イコノクラスム」とか「聖像破壊論争」とか呼ばれるその期間は、八世紀から九世紀にかけて、百年以上も続きました。しかし、結局、イコンは正統なものと認められました。正教会では、そのことを年一回、大斎の第一主日に「正教勝利の主日」と称してお祝いします。

正教会がイコンを使用するのには主に三つの理由があります。

一つは教育的な目的で使用します。イコンにはハリストス(キリスト)だけでなく、生神女マリヤや聖人たち、また聖書や教会の歴史の中の出来事が描かれますが、例えば、降誕祭のイコンであれば、そこに描かれている場面や人物や構図や色や形をとおして、私たちは降誕祭の意味をくみ取ることができます。またマリヤやハリストス(キリスト)のイコンにも、それぞれの色や形に深い意味が込められていて、私達は、それらをとおして正しい信仰とは何かを学び取ることができます。イコンに込められた意味、表現される内容は、正教会の信仰を語るものでなければなりません。そこに個人的な感情や感動や思想や解釈があってはなりません。イコンは誰にでも作ることができるものではなく、しっかりとした正教会の信仰をもっている人のみにゆるされたものです。正教会の信仰の内容を正しく伝えるため、イコンには色や線や形の伝統があります。そういう意味で、(正教会にも西洋画の影響を受けた形のイコンがありますが)西方教会が用いる聖画や単なる宗教画とは区別されます。

正教会がイコンを使用する第二の理由は、イコンそのものを神として拝むのではなく、イコンに描かれたハリストス(キリスト)を崇拝するからです(それがマリヤや聖人たちのイコンであれば彼等への敬愛)。難しくいえばイコンの中にある原像を見るのです。やさしく言えば、愛する人の写真に似ています。人は写真を愛するのではなく、写真に写っている彼女もしくは彼を愛します。それと同じように、イコンの中に映し出されているハリストス(キリスト)、敬愛するマリヤや聖人たちの姿は、信仰の心を育み、支えてくれます。写真が一枚の紙にすぎないように、イコンもある意味では一枚の板や紙きれにすぎません。しかし、私たちは愛する人の写真を大切に扱うように、イコンを大切に扱います。イコンを見つめ、イコンの前で頭をさげ、イコンに接吻し、イコンを前にして祈るのは、そこに愛する対象が描かれているからです。しかし、イコンへの敬いとイコンの中の原像への信仰心とは厳密に区別しておく必要はあります。イコンそのものを大切にし、イコンに対して接吻したりする行為に関しては「崇敬」という言葉を使い、イコンの中にいるハリストス(キリスト)ご自身に対しては「崇拝」するという言葉が用いられます。「崇拝」と「崇敬」を混同しないはからいとして、正教会では立体的な像を用いません。イコンはすべて平面です。しばしば「イコンは正教会において信仰の対象となっている」などと言われますが、それは間違いです。イコンは信仰の対象ではありません。イコンは信仰の尊き媒介なのです。その尊く聖なるイコンをとおして、時々奇跡が行われることもありますが、それはイコンが単なる「道具」ではなく、神の恵みを与える機密的な物質だからです。

正教会がイコンを正統なものとして使用する三つ目の理由は、ハリストス(キリスト)ご自身に関わる教義的な理由です。ハリストス(キリスト)は、神様が人間になったお方です。神様が私達と同じに人間になった、そして死までも味わわれた、しかし、そこから新しい生命へと復活した、これが正教会のキリスト教の信仰の真髄です。神が私達と同じ人間になったということは、つまりハリストス(キリスト)には肉体があったということです。そして、それは完全に神の性質と一つに合わせられたのです。仮にとか一時的にではなく、完全に神様が私たちと同じこの目に見える体を取られました。だから、ハリストス(キリスト)をイコンとして描くことができ、描かれたハリストス(キリスト)は同時に神でもあるので、ハリストス(キリスト)を拝むことは神を拝むことになります。神さまは目に見えないお方だから、イコンとして描くことはできない、という人たちは、「神が人となった事実」を否定する人たちであり、それではもはやキリスト教ではありません。ハリストス(キリスト)を「神が人となったお方」であることを信じるなら、イコンは当然、公認されうるもの、さらにいうなら、イコンこそ、キリスト教(正教会)の信仰の力強い証です。

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