正教徒は、教会に来た時だけお祈りすればよいのではありません。普段から、家でもどこでも祈りを神に捧げることが大切です。しかし、正教徒がプライベートに祈る時にも、「小祈祷書」と呼ばれる本にそって行うよう勧められています。「小祈祷書」の中の言葉も教会で公に祈る時に使用する奉神礼書の中から引用され編集されています。つまり、正教会では、個人と教会は祈りにおいて分離されません。個人的に一人で家で祈る時も、正教徒は、孤独ではなく教会と共に祈っています。教会でみんなで口をそろえて祈る時も、正教徒は個としての自分を失いません。
日本正教会が現在用いている奉神礼の言葉は、「小祈祷書」でも他の奉神礼書でも大変古めかしい漢文調の日本語が使用されています。言葉のリズムや原語に近い翻訳を大切にしているからです。確かに個々の単語には難解な語句もありますが、「小祈祷書」を何度も読むことによって、言葉に慣れ、意味も分かってきます。
正教徒は、こうした定型の祈祷文(正教会では「祝文」と言う)を読み、そこに自分の心を合わせることによって祈りを神に捧げます。自分の言葉を全く否定するのではありませんが、自分の言葉には、自己満足や間違った感情や感覚があり、祈りが無意味になったり空回りしたりする危険をはらんでいます。私たちは洗礼を受けたとたんに正しい祈りをささげることができるようになるのではありません。祈りは、成長していくものです。日々の祈り、教会での祈りを繰り返していくことによって、祈りは身についてきます。

祈りというのは単に神様に何かお願いごとをする、ということではありません。神さまに感謝すること、神様を讃美することが最も大切な祈りの心です。そして次に大切なのは自分の罪を痛悔すること、すなわち悔い改めの心をもって罪の赦しを願うことです。神に何か願いごとをする懇願の祈りも、その内容は自ら整理されるでしょう。私たちは何を神に願えばよいのかを、祈祷書の言葉が教えてくれます。もちろん舌先だけ動かして心が空になっていては何にもなりません。正教会では、言葉だけでなく、十字をかくとか、伏拝するとか、ロウソクを持つとか、イコンを見つめるなどの行為を伴う祈りをしますが、それらをとおして心からの祈りをもつことが肝心です。
「天国への梯子」という本を書いた階梯者イオアン(ヨハネ)という聖師父は、「祈りとは、本質的にいって神との交わりであり神との一致である」と教えています。祈りは信仰生活の基礎であり、私たちに徳を行う力、罪を繰り返さない力を与えます。金口イオアン(ヨハネ)という聖師父は、「水なしで木が生きられないように、人のたましいは祈りにおける神との交わりがなければ生きられない」と教えています。
祈りによって神と一致する、というのは、いつでもどこでも神と共にいるということです。旧約聖書の申命記には、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。私が命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子供たちに教え、あなたが家に坐している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。」とあります(6:4~9)。
どんな時も、いつでもどこでも、絶え間なく「神を愛する」ことを忘れないでいなさいという、この旧約聖書の教えは、聖使徒パウェル(パウロ)が言った「絶えず祈りなさい」(フェサロニカ(テサロニケ)前書5:17)という新約の教えに引き継がれています。
そして、正教会にはこの「絶え間ない祈り」を文字通り実践する伝統があります。それは「イイスス(イエス)の祈り」と呼ばれる祈りである「主イイスス(イエス)・ハリストス(キリスト)、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え」という短い言葉を、繰り返し繰り返し、何百回も何千回も何万回も唱えることによって、身につけられます。その時「チョトキ」と呼ばれる数珠のようなものを使うこともあります。しかし、これをきちんと実践するためには、ちゃんとした指導者を必要としますので、主に修道院で修道士たちによって行われている方法です。この絶え間ない祈りは、もちろん心と体を静かに保つ必要があります。それで、このことを「静寂」という意味の「ヘジカズム」という言葉で表現します。
正教会には、この「ヘジカズム」の伝統にのっとり、どのような祈りをどのように神様にささげるべきか、祈りとは何か、祈る心とは何かを詳しく説明した特別な本があります。「フィロカリア」と呼ばれるその本は、祈りについて教えている聖師父たちの言葉を集成したものです。「フィロカリア」とは「善(または美)を愛する」という意味のギリシャ語です。残念ながらその一部しか日本語には訳されていません。
「ヘジカズム」というのは何か特別なことのように思えますが、しかし基本は同じところにあります。いつも神様のことを忘れないように、心に留めるという基本です。私たちは「イイスス(イエス)の祈り」よりもっと短い言葉「主、憐れめよ」を知っています。この祈りを、「家にいる時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も」電車の中でもお風呂の中でも会社や学校の中でも、心の底で祈ることができます。教会にきて「主、憐れめよ」「主、憐れめよ」と何度も繰り返し祈るのは、教会から離れた時も、この祈りを祈るためにあり、教会を離れても「主、憐れめよ」と祈るのは、教会に来た時に、この祈りがより豊かな意味をもつようになるためです。
正教会が最も大切にする祈りの中に「天主経」があります。ハリストス(キリスト)自ら「こう祈りなさい」と教えた祈りです。神を父と呼び、神の名、神の国、神の旨を第一に求めます。罪深い私たちはまったくその逆の自己中心的に生きていますので、「天主経」は自然に感情を込めて祈れる祈りではありません。しかし、だからこそ何度も唱えて、神の中心の心と生活を身につけていくことが大切です。
天にいます我等の父や
願わくは汝の名は聖とせられ
汝の国は来たり
汝の旨(むね)は天に行わるるが如(ごと)く地にも行われん
我が日用の糧を今日(こんにち)我等に与え給え
我等に債(おいめ)ある者を、我等、赦(ゆる)すが如(ごと)く
我等の債(おいめ)を赦(ゆる)し給え
我等を誘いに導かず
なお我等を凶悪より救い給え
蓋(けだし)、国と権能と光栄は汝に世々に帰す、アミン